■駄目サラリーマンだった私
2009年4月1日。エイプリルフール。そう、ウソのような話。私は、鉄道会社の代表取締役社長に就任しました。駄目サラリーマンだった私がなぜ?それは、小さな奇跡が起きたからです・・・
20年前、山形に住むようになって間もない頃、あてもなく営業で車を走らせていると、小さなマッチ箱のような列車がコトコト走っている姿が目に入りました。近くの駅に寄ってみると、その駅が終点の駅で列車が車庫に入るところでした。スーツ姿で列車を見に来た私を鉄道員が車両基地に案内してくれた。それが縁で、案内してくれた若き運転士と親しくなり、当時旅行エージェントに勤務していたこともあり、彼の悩みや相談(観光客へのPR や誘客方法など)を受けているうちに、「絶対この鉄道を守って見せる!」という彼の決意や熱い思いに応えたくなりました。
この小さなローカル線の正式名称は「山形鉄道フラワー長井線」という第三セクターの鉄道会社。当時は廃線問題も浮上してもおかしくない赤字ローカル線でした。少子高齢化で地元の高校生などの通学客が減っていくので、観光客を新規に拡大させ再生することを彼は熱弁していました。
彼自身が、沿線の車窓を案内することで全国から観光客を呼び込みたい!私は、共感し、本気で彼を応援したくなりました。
彼の行動力は本物でした。列車の運転をしない時は、ハンドルをマイクに持ち替え、観光客相手に車窓ガイドの練習を始めたのです。30ページの台本を書き、ボランティアガイドの講習会にも積極的に参加し、ガイドのいろはを習得したようです。
私も、当時始めたばかりの「移動駄菓子屋」を客寄せやにぎやかしの為に駅前で始めつつ、彼の活動をサポートしていました。
しかし、駅前も車内も客はゼロ。「空気を運ぶ列車」と揶揄され、それに奮闘する我々二人を他人からみたら喜劇にしか映らなかっただろうなと思います。
それでも、彼は「駄菓子屋列車」「カブトムシ格闘列車」「鈴虫列車」などを企画していました。集まってくるのは地元の子供達ばかり。小学生未満は運賃無料なので、企画自体も赤字。それを何度も繰り返すうちに、気力も体力も消耗してきます。
「野村さん!そのうちきっといいこと起こりますよね!」
赤字イベント後片付けをしながら車両基地でお互い励まし合ったこともしばしば・・・
■空気を運ぶ列車に、バス40台1500名の観光客が2日間で集める
悪戦苦闘している我々に好奇心を持った新聞記者さんが取材してくださることがポツポツ出てきました。とりわけ「運転士による車窓ガイドは珍しい」と新聞テレビで紹介され始めたのです。
私は、当時勤務していた旅行会社で「フラワー長井線応援ツアー」を企画。バス1台集まれば御の字と思いきやバス40台1500名の観光客が2日間で集まってしまいました。通常1両で走っている長井線が3両編成で2往復もしたことが沿線住民を驚かせ、主要駅ごとで地元の方の歓迎を受けるほどの一大イベントになったのです。これは想定外のできごとでした。
その後、私は、車内販売用のグッズ、沿線イラストマップ、方言ガイドの自伝本も出版を提案。商品開発や車内販売を買って出ました。自腹を切ったので、売れなければ私が借金を抱えてしまうが、そんな不安は全く感じません。結果、マスコミに300回以上も紹介され「タモリの笑っていいとも!」にまでも呼ばれ、観光客が約100倍に膨れ上がりました。お陰様でグッズも完売。彼は一躍有名人になりました。当時の私はサラリーマンだったので、ひたすらサポート役に徹し、功績とか認めて欲しいとかいう感情を超えた何かに私は動かされていたように思います。そんな時期を3年続けたある日、私にも小さな奇跡がおこったのです。
■妻に内緒で公募社長の試験を受けるが・・・
応援していた山形鉄道で社長を公募すると全国新聞で公示され、たくさんの友人知人が「野村が適任だから受けてみろよ!」と激励してくれました。『今度はあなたが舞台に立って鉄道会社を再構築させる番じゃぞ!』と神様が背中を押してくれたようでもありました。反面、リスクもあります。旅行エージェントを辞めねばならないので社長公募に落ちたら即失業者だ。合格したとしても代表取締役社長には任期があり、業績が振るわねば解任もありえます。毎年1億円以上の赤字を出すローカル線。黒字化など簡単に再建などいかぬ。「サラリーマンの安定の道で赤字ローカル線を応援するか?」「自ら赤字会社を再生させるか?」のせめぎ合いに苦しみつつ、結局、妻に内緒で応募書類を送ってしまいました。新聞の情報によると競争率89倍もの応募があったそうです。2人の娘たちはまだ小学生。学費等もまだまだかかるだろうし、将来への不安材料が山積み状態で見切り発車してしまったのです。第一次選考の結果が届きました。89名の中から11名に絞られたという知らせでした。もう、覚悟を決めるしかない。合否が決まってから妻に話そうと問題をどんどん先延ばししていた3月上旬、社長公募の最終面接日の夜、採用内定の電話連絡がありました。正式には二週間後の取締役会で決定するそうなので、その猶予期間に妻を説得させる作戦を考えることにしました。ところが、翌日の新聞に「山形鉄道の次期社長候補者に野村氏を選出」との記事が出てしまったのです。正式ではないが候補者として。内定に至る経緯も詳しく出ています。妻は新聞記事をぐちゃぐちゃに丸め私に投げつけ、それから1か月以上口を閉ざしてしまいました。
なんとも厳しい妻を伴侶にしてしまったのだ。と頭を悩ませたが、このままでは、鉄道再構築どころか家庭が崩壊してしまいます。
「そうだ!妻に手紙を書こう!言葉よりも文字の方が伝わりやすい」と妙案を思いついた。宛先と差出人の住所が同じ妙な封筒をポストに投函し、妻の反応を待ちました。
3日後の夜、職場で残業をしていると妻の携帯電話から着信がありました。相手は長女からでした。
「お父さん、私は賛成だよ。山形鉄道でお仕事すれば転勤ないし、お友達とさよならしなくていいからね。大好きな列車の仕事をしていつも笑顔でいて欲しいから。お母さんと仲良くして欲しいし・・・お母さんにかわるね?」
「もし、もし・・・お父さんは、いつも辛い顔で仕事してるし、なんだか先が見えなくなって・・・」一か月ぶりに聞いた妻の声に目頭が熱くなった。携帯電話をつたって塩辛い液体がポタポタ落ちてくる
「ごめんな。でも、あの手紙に書いたことは本当に素直な気持ちなんだ」
「私もなんか手伝えるかな?」
妻が許してくれた瞬間だった。恥ずかしながら、手紙の内容を、本ページに掲載するつもりでしたが
全世界に繋がるインターネットで発信するには、あまりにも恥ずかしい内容なので差し控えたいと思います。関心のある方は、拙書p187をご覧頂ければ幸いです。(https://www.amazon.co.jp/私、フラワー長井線「公募社長」野村浩志と申します-野村-浩志/dp/4775200712)